映画「国宝」吉沢亮さんインタビュー 「ひたすら自分を追い込み、ようやく表現できた世界」

【好書好日の記事から】
>吉田修一さん「国宝」インタビュー 歌舞伎の黒衣経験を血肉に、冒険し続けた4年間
――上下巻ある原作を、約3時間の映画としてギュッと濃縮した脚本になっていたと感じましたが、原作を読んだ感想を教えてください。
お話をいただいてから原作を読ませていただいたのですが、上下巻で雰囲気がガラッと変わるなと感じました。どちらも波乱万丈な人生が描かれているのですが、上巻は割と引きで見ている感じがあって、笑えるところもあるし軽やかな雰囲気が続くのですが、下巻になると、どんどん喜久雄の心情に寄っていって、闇に飲み込まれていくような感覚がありました。
一貫して一人の人生を追っているのですが、登場人物たちの距離感が喜久雄に近くなるにつれて深くシリアスになっていく感じが、作りとしてとても面白いなと思いました。
――本作の原作を書かれた吉田修一さんの『悪人』と、『怒り』が特に好きだとうかがいましたが、吉田さんの作品の魅力をどんなところに感じますか?
『怒り』と『国宝』を読んだ時では、印象が全く違いました。『怒り』は、読んでいるとこっちの内臓をえぐられるような、ものすごく重いものが腹にのしかかるような感覚があったのですが、歌舞伎を題材にした『国宝』は、吉田さんご自身も黒衣の経験があって本作を描かれているので、どこか舞台を見ている感覚がありました。
こちらにもえぐられる瞬間はあるんだけど、それが視界いっぱいに広がるというより、ひとつの枠で起こっていることという感覚が最後までずっとあって、刺さり方が全然違ったんです。それに、僕は喜久雄が最後までどういう人間か分からなかったので、そこもすごく面白いなと思いました。吉田さんはお話の作り方や構成力が天才的な方だなと思いながら読んでいました。
――喜久雄は「稀代の女形」という役どころでしたが、女形を演じる難しさをどんなところに感じましたか?
全てが難しかったです。男が女性を演じて“美しい存在”としていなければならないので、体幹や姿勢といった女形が成立する地盤みたいなものが基礎であり、全てだなと思いました。そこをどれだけ追求できるかの世界だと思い、本作に挑みました。
――作中で「二人道成寺」や「二人藤娘」など数々の演目を演じていますが、目線や指先の動かし方ひとつにも、とても気を配っていましたね。
ひとつひとつにとても気を使っているんだけど、そう見えないように見せるのが苦労したところでした。どれだけ綺麗に見せられるかが、女形を演じる上での目標で、歌舞伎指導をしていただいた中村鴈治郎さんが演じられた『京鹿子娘道成寺』を拝見したのですが、踊りが女性の所作として成立しているんです。
作中で、俊介に直接『娘道成寺』の稽古をつけている時の万菊さんが「若い娘になりきってれば、あんな形、恥ずかしくてできやしないんだからね」というセリフがあるのですが、女性としてのたたずまいがそのまま踊りになっているというのは、異次元の世界だなと思いました。その芸をたった1年半稽古したところで到底たどり着けない世界だと思いましたし、やればやるほど「とんでもない世界に足を突っ込んだな」と気づかされました。
――手踊りや鞠唄、花笠踊などを習得しこの役を演じきりましたが、歌舞伎の世界に足を少しだけ踏み入れてみて、いかがでしたか?
「芸を生きる」ということがこんなにも覚悟のいることなのかと痛感しましたし、これまでやってきた、役者として人間を生きることとは全然違う世界を生きたなと思います。何百年も前から先人たちが昇華してきた歌舞伎という芸を現代の人が今も受け継いでいて、だからこそ何百年も続いているのだろうなと思います。
――任侠一門の息子である喜久雄が、不思議な運命の廻り合わせで歌舞伎の女形になり、「人間国宝」に指定される名優になるまでを描いた本作ですが、その苦難に満ちた人生を生きてみて、どんなことを思いますか?
映画ではシリアスなシーンが多いので、喜久雄を演じることは僕自身、体力的にも精神的にも追い込まれました。喜久雄は純粋に「歌舞伎」というものに魅了されて、ただただ自分の芸を極めたいという思いで生きている人間ですが、そこには血筋の問題などさまざまなしがらみが彼の行く道を邪魔して、なかなか順風満帆には進めない。そんな人生を生きているので、それはとても大変なことだったと思います。
――喜久雄の人生に大きな影響を与える師匠の花井半二郎(渡辺謙)や、女形で人間国宝の小野川万菊(田中泯)の言葉に心が揺れた瞬間はありましたか?
先ほども言った万菊さんの「若い娘になりきってれば、あんな形、恥ずかしくてできやしないんだからね。」というセリフは「まさにそうだよな」と思います。自分の中でいろいろ考えながら芝居をしていると「今の言い方だと、役として成立していないかも」と思う瞬間があるのですが、その役として自分がちゃんと生きていたら、そんな思考をすることもないと思うんです。歌舞伎役者の方々はそういう次元のお芝居をされているのだなと思いましたし、僕もそういうお芝居をしたいなと思いました。
――芸事に人生を捧げる人たちの覚悟を感じた作品でしたが、役を通してそれを体感してみて、どんな思いがありましたか?
自分にはとても追いつけることではないですが、「芸に生きるってなんだろう」ということを考えました。喜久雄を含め、この作品に出てくる人たちはそれなしでは生きられない、その世界にしか幸せを感じないくらいの領域にまで達しているように思うんです。
僕も「休みが欲しいな」と思うこともあるけど、やっぱりお芝居をしている時が一番楽しいし、「生きているな」と一番実感するのはお芝居をしている時なので、その思いの片鱗は共感できました。
――本作の出演を経て、「役を生きる」ことについてつかんだものや得たものを教えて下さい。
ふだんはセリフがあってそれを覚えて、現場に入って他の役者さんや監督とセッションをする中で生まれるものを大事にしようという意識でやってきたのですが、この作品はその究極体のような感じでした。自分が現場に入る前まで持っていた考えや「こういう人間像かな」といったものを全て捨てて、現場で起きていることだけを拾って、その場で感じたことだけをお芝居するという感覚だったので、途中から台本を読むこともなかったです。
――これまで培ってきたものや準備してきたものを捨てて挑んだ役だったのですね。
現場を大事にするという考え方はどの作品でも同じですが、今作に関しては、それだけに全てを集約したような日々でした。例えば大河ドラマの場合、1年半をかけて一人の役をやっていくので、だんだんと自分の中に役が染み込んで、自分と役が一体化するような感覚を作っていけるのですが、今回は自分の考えや技術みたいなもので役をリンクさせていくといったことを全部取っ払いました。
喜久雄がそのシーンで感じている苦悩や緊張、胸の高まりなど、そこにどれだけ自分自身が追いつけるかという日だったので、演じていてすごく苦しかったです。自分で自分をとことん追い込んだし、毎日「つらいな」と思っていたのですが、そこまでやって、ようやく表現できる世界みたいなものは撮れたと思っています。ただひたすらに自分を追い込むことで役になっていくような感覚は初めてかもしれないです。
――カンヌ国際映画祭で公式上映されましたが、「歌舞伎」という日本の伝統芸能を題材にした本作が、海外の人からどんな反応があるのかも楽しみですね。
この作品の上映時間は3時間近くあるのですが、その間ずっと集中して見てくださっている空気感が現地で流れていたんです。上映後の熱狂もすごくて、みなさんが本当に喜んでくれているのがとても伝わってきて安心しました。これだけ日本の伝統芸能をテーマにしている作品が世界に受け入れられたことは、日本人の役者として嬉しい限りです。
――吉沢さんにとって「国宝」はどんな作品になりましたか?
映画が公開されて、いろいろな方に見ていただく中で、きっと変わっていくんだろうなと思います。僕の役者人生の集大成になったという実感は確実にありますし、今の自分が持っているものを170%出したので、今後何年かはこの作品を超える作品とは出会えないだろうなと思っています。